母の介護奮闘記-4

目次:80キロ離れたひとり暮らしの母の介護奮闘記-4

☆2023年3月23日 介護でお世話になった兄のようなTさんの死

☆2023年3月27日 グループホームC八木の契約日・・山のような書類!

☆2023年4月2日 グループホームC八木への入所前日・・母に通告!すると?

☆2023年4月3日 グループホームC八木への入所当日・・車に乗ってくれるのか?

☆2023年4月4日 市役所支所で転入届の手続き・・91才でも来てくれという?

☆2023年3月23日 介護でお世話になった兄のようなTさんの死

2023年3月23日の昼に電話があり、母の介護で、母が転倒して病院に緊急で行った時にたまたま来ていた息子さんと駆けつけてきてくれたり、翌日に母のベッドを一緒になって2階から1階に降ろしてくれたり、前述の停電事件では深夜23時に駆けつけてくれたり、しょっちゅう様子見に来てくれたりと何かとお世話になり、また、母の今後のことや介護施設のことで経験や知見のあるTさんが、ここ1年ほど前から胃がんで闘病されていましたが、深夜0時30分に亡くなったとの電話が奥様からきました。私は、小さい頃からもう60年近い付き合いで、まるで兄のように慕い、文字通り今まで「兄ちゃん」と呼んでいたTさんでした。昨年秋には、抗がん剤「オプチーボ」が効き、ゴルフ(18ホールを回れて喜んでいたのに・・)の復帰まで果たしたものの、今年の初めからこれが効かず、この3月になってからは苦しい在宅での闘病生活でした。私は母の介護で帰省の折には、必ずTさんの顔を見に行っていました。もう、母のことで、車ですぐに駆けつけてくれる人はいなくなりました。介護のことで何でも話しができるのは、奥様ひとりになりました。困った。逆に言えば、母を明石に連れていく以外に方法は残されていないのですね。なお、Tさんはがんと闘いながら、亡くなる直前まで、自分自身の告別式の手配までしていたとあとで聞かされました。このTさんの通夜と告別式のために、私は今月4回目の帰省をしましたが、Tさんのことは、もちろん母もよく知っていますので、亡くなったことを言うべきかどうか悩みました。今の母の状況を考えるとどうしても、言えません。その後に奥様とも相談したのですが、暫くはこのままで行こうかと考えています。

☆2023年3月27日 グループホームC八木との契約・・山のような書類!

2023年3月27日10時に私ひとりでC八木に行き、まるで保険のような「重要事項説明書」の説明を順次聞き、10種類近い書類に記名押印をしました。もちろん母はいないので、私が母の名前を書くことになります。費用の自動引き落としの書類もです。多分、正式には「後見人制度」になるのでしょうが、認知症の場合は、仕方がないですよね。銀行側は、銀行届出印だけのチェックなのでしょう。また、すべての書類の住所を大阪か明石のどちらにするかという話になり、転出日が4月2日で、契約日の3月27日はまだ大阪ですが、契約書はすべて明石の私の住所にするとのことでした。その後、C八木と提携している近くのクリニックに行き、準備した「診療情報提供書」を渡すと、C八木と同様、クリニックからの4種類の契約書類等に記名押印をしました。またこの折にこのクリニックの担当の看護師さんに、C八木の評判等を聞きましたが、提携なのでこれは口が堅いでしたね。これらと併せて、最後に提携の薬局との契約書を渡され、自動引き落としの契約書含め5種類の契約書等に記名押印をし、これは郵送となりました。2時間ほどでやっと契約が終わりました。ここで、びっくりしたのですが、大阪の眼科の「診療情報提供書」がここでは渡さず残っていたので、聞くと、「それは、ご自身で眼科に出してください」と言うのです??。契約書もそうですが、すべて「一括」でできないのでしょうかね。さあ、あと残された難題は、いかにして母をここに連れてくるかですね。これも、今日会ったC八木と病院の人すべてに聞きましたが、妙案はなかったです。

☆2023年4月2日 グループホームC八木への入所前日・・母に通告!すると?

2023年4月2日(日)の午後に車を運転して大阪の実家に向かいました。この日は2号線、43号線とも比較的すいていて、約3時間で着きました。着いてから一休みして、母に「大事な話があるねん」と言って、「明石で10軒ほど施設を見学して、普通はめったに空けへんけど、やっと一つ空いてん。明日の朝9時に出発するから、準備して」と言いました。実はこの日までに、何度か「明石で良い施設を探している」という話はしていたのですが、いつも「そんなんいらん。ここで暮らす。」の一点張りで、押し問答の末、一度ですが、怒りながら「もうーーまかす」と言ったこともあるのです。でももう忘れてしまっています。また、いちからの話になります。この日は17時頃から30分ほど話をしましたが、「ここで最後まで暮らす。もうほおっておいてくれたらええんや。勝手に死んでるから」と言い、「そんなわけにいかんやろ。俺を犯罪者にするつもりか?」というと、「そんなん、私死んでるから知らん」というような押し問答です。かつて、初めてデイサービスに行く時も、「そんなところ行けへん。市のカラオケ(サークル)に行く(そんな距離は歩けないのに)」と言い、ヘルパーさんに来てもらう時も、「ヘルパーを家に入れてお金をとられたて聞いたからいや」でした。すべては「NO」から始まるのです。この日は、さすがにもう話すのをやめ、私としては、明日の朝にパジャマのままでも、強引に車に乗せて行こうと考えました。それと、その日にしなければならない仕事がたくさんありました。2階の少し小さいテレビを梱包して車に積まなくてはなりませんし、明石で準備できなかった普段着や下着をまとめて全部に名前を書かなければなりません。また、今着ている洗濯ものは、明石に持ち帰って洗濯した上で後日持って行くことも必要です。おまけに今後はこの家も空き家になるので、生ごみも持ち帰って処分しなければなりません。電気は冷蔵庫以外はすべてコンセントを抜く必要がありますし。その日は、おいしい肉でも買ってきて食べようかと考えていたのですが、結局、スーパーに行く時間もなく、冷凍庫にあったハンバーグを無言で二人で食べましたね。

☆2023年4月3日 グループホームC八木への入所当日・・車に乗ってくれるのか?

2023年4月3日(月)朝7時15分に起きて、私が無言で朝食の準備をしながら母の様子をみていると、少し諦めたかのような感じがしてきました。「準備しいや」というと、相変わらず「行けへん」とはいうものの少し軟化してきたようです。私が「行ってみて、いややったらまた帰ってきたらええねん」と言い、私が準備し始めると、デイサービスに行く服を着てくれたので、見ないフリをして私は荷物を車に積み込んだりして忙しくしていました。「さあ行くで」と言うと流石に諦めたのか、何と!素直に車に乗ってくれました。良かった。ほっと一息です。この日の移動は、めったに使わない阪神高速神戸線でしたが、芦屋で事故渋滞に会い、結局2時間近くかかってしまいました。母はおとなしく外の満開の桜を眺めていましたね。

11時過ぎにグループホームC八木に着くと、どうなっているのかと心配していた由でケアマネのHさんが迎えてくれました。早速、Hさんが母を迎えてくれ、任せてくれという合図のようなしぐさだったので、母は任せ、私は車から荷物を部屋に運び込みました。部屋でテレビをセットしていると壁からつなぐ同軸ケーブルを忘れたことがわかりました。また新しいのをそろえて再度来ることになり、母の様子を見ていると、他の入所者の真ん中で、「借りてきた猫」状態でちょこんと座っていましたね。他人の前では恰好を気にする性格なので、気が張っているのでしょう。

その日は、16時頃に女房と一緒に、テレビの同軸ケーブルと、一人用のドリップコーヒー(もともと母は毎朝ひとりでもコーヒーをドリップして飲んでいましたので聞いてみると、一人用ならサーブしてくれる由でした)、ティッシュペーパー(施設で買ってくれるらしいのですが)等を持って行きました。また、テレビは大阪から兵庫県へのチューニングが必要でしたので、部屋に入って調整している時に、横にいる女房を指して母に「これ誰?」というと誰か判らず、女房が「E子とN子の母やで」と言っても判らず、別の親戚の「Tちゃんか?」「Sちゃんか?」という始末です。まあ、ともあれ無事に入所が終わり、ほっとしましたね。

入所しました!

☆2023年4月4日 市役所支所で転入届の手続き・・91才でも来てくれという?

2023年4月4日に市役所支所に行き、転入届の手続きに行きました。予めネットで調べていて本人の委任状がいると書いてあったので、実はプリントアウトして用意して大阪の実家に持って行っていたのですが、一昨日や昨日の状況で母に書いてもらうわけにもいかずでしたが、そこは何とか!?しましたね。住民票の係に行き、これを出すと、すんなりまた別の書類に記入し完了したのですが、マイナンバーカードに運転免許証のような住所変更の記載が必要らしくて、40分程度時間がかかることと、本人出頭が必要?と言い出すのでした。「母はここまで歩けない」というと困った顔をしていましたね。その後にその人は「調べます」と言い、その場は終わり、次に健康保険の窓口に行くと、介護等級認定書がいるとのことで、昼前でもあり、マイナンバーの時間待ちもあり、一旦家に帰ることになりました。午後になり、大阪でもらった介護等級認定書を持って、再度健康保険の窓口に行きましたが、その時、窓口の方が「健康保険にマイナンバーを記載されますか?」と言うので、「今、マイナンバーはここで預けたままです」と言うと、また「記載されますか?」と聞くのです。そこで「記載したらどうなるのですか?」と聞くと、「病院でマイナンバーが使えるところで使えますが、まだまだ使えない病院が多いですから、どうしますか?」言うのです。私は、「大阪の病院ではマイナンバーのリーダーがあったので申し込みます」と言うと、この担当者は、ここで私がマイナンバーカードができてくるまでの時間を待つのががいやそうでしたね。その後、暫くまた待っているとマンナンバーカードができてきた(新住所記載の)ので、私がマイナンバーカード記載の番号を高齢者保険(か介護保険?)の用紙に記載しました。

一方、91才でも来てくれというマイナンバーカードの担当者は、私にカードを渡しながら、「今度の2026年の更新の時に、代理で発行できる案内が書いてあるので、それを見てやってください」と言いました。この人達は、マイナンバーカードを普及させたくないようですね??。

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