「コラム」カテゴリーアーカイブ

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***2023/1/3より、「母の介護奮闘記」は、「はてなブログ」へ移行しました。

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***2023/6/5より、「ロードバイク旅」の記事は、「NOTE」へ移行しました。

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***2024/3/7より、その他の記事は、AMEBAブログに移行しました。

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今年のTOEIC受験の結果は?・・目標は遠いのです。

60才以降、毎年12月に「義務」のように受験しているTOEICですが、今年は、受験するかどうかグズグズ迷っていたので、2024年1月28日となってしまいました。当日は、神戸の流通科学大学での受験になりましたが、今までは、確か甲南大学か、ポートアイランドだったのに、今回は初めての場所だったので、早めに行きました。久しぶりに、新長田から学園都市まで神戸市営地下鉄に乗りました。

今回の試験勉強は、試験日の1か月ほど前からリスニング2900問(前回4500問)、リ-ディング1900問(前回2400問)をして臨みましたが、いつもと違うのは経費節減で、今までは新たに模試の本を買っていたのですが、すでにある本とネットの無料模試を使ってやってみたのです。YOUTUBEで、無料公開している「こんちゃん模試」と、海外のTOEICの模試です。「こんちゃん模試」は解説があるので本当に助かりますが、それ以外のチャンネルは解説がないので、たまに実力を試すときだけに使いました。海外の模試のチャンネルは、いつの間にかなくなっていたり、同じものが、別のサイトで公開されていたりしていますね。

◎無料のこんちゃん模試はこちら  https://www.youtube.com/@konchan990

その結果が、2024年2月13日に結果が出ました。いつも通り、目標は800点なのですが、遠く及ばず、735点でした。今まで経過は、以下の通りです。

2023年 1月は、735点(L:360点、R:375点)、

2022年12月は、715点(L:345点、R:370点)、

2021年11月は、745点(L:370点、R:375点)、

2021年 1月は、740点(L:395点、R:345点)

まあじり貧状態ですね。800点へのブレークスルーの方法って何なんでしょうね。必要条件は、英語を使うことの絶対時間なのでしょうね。

今回、試験当日に少し意外だったのは、最初のリスニングで、その前日にやったIIBCの模試と同じ人(スピーカー)だったのですね。本家であるIIBCの模試と同じ人に当たって、出足は良かったのですが、結果は大して変わらずなので、やはり実力としか言いようがないですね。

それと、今回初めて経験したのですが、私の右隣で受験していた女性(40才代くらいと思われる)が、リスニングの時に、早く回答ができるのでしょうね、私がまだ問題を解いている時に、問題用紙の次のページをめくる「シャカッ」という音がするのです。この人以外の私の前後と左隣の人は、私と同じようなスピードなのですが、この右隣の女性だけが早いのです。あれって、結構プレッシャーですね。音がでないように、ひっそりとページをめくってくれればいいのですが、思いっきり「シャカッ」なのです。

今回も目標の800点は遠ざかるばかりです。来年はどうしようか迷うところですね。もう止めようかな? でも年1回でも、あの試験場で、国際派であろう若い人たちを見るのも、何か刺激になるのですがね。

それと、試験が終わって、いつもと違うところで、何かおいしいものを食べて、おいしい「やっとTOEICが終わったビール」が飲めることがいいのですよ。

新長田でのお昼に「やっとTOEICが終わったビール!」

母の介護奮闘記-6

目次:

☆2023年4月12日(水)母からのメールで「ここは聞くカラオケや」と言う?

☆2023年4月12日(水)グループホームをすすめてくれた大阪の看護師Nさんから電話があった!

☆2023年4月22日(土)面会に行くと母は?

☆2023年4月12日(水)母からのメールで「ここは聞くカラオケや」と言う?

2023年4月12日の10時にA市の健康保険証や介護保険証ができたので持参しました。その場では、母への面会を事前予約していなかったのでやめましたが、ケアマネのHさんに母の様子を聞くと、「少し慣れてこられたようです。今までに来た方の中でも一番静かですね。ただ、まだ帰れると思っておられるようです」とのことでした。私からは、「そうですね。同調意識は高いですから」と言いました。また、母とのメールで「カラオケしたかと打ったら、聞くカラオケやったと返事がきましたね」と言い、その理由を聞くと、「あっ!そうそう、二階(母のいる)のマイクが故障してたんや」とのことでした。私からは、思わず「ここに連れてくるのに、カラオケもあるしいーーーと何回も言ったのでーー」と言いましたね。

☆2023年4月12日(水)グループホームをすすめてくれた大阪の看護師Nさんから電話があった!

2023年4月12日(水)に以前お世話になった大阪の訪問看護師Nさんから電話がありました。電話の目的は、母に訪問看護費で未払いのお金がまだあった(2431円?)のでどうしましょうかと言うことだったのですが、このことよりも、母が今入所しているグループホームのケアマネから電話があって薬の処方についての問い合わせと、今の様子の説明があったということを言ってくれました。個人情報保護の時代ですが、こんなことは大いにやってほしいと思いましたね。それと、私からは逆にこちらのグループホームの管理体制というか、「しっかり運営できているのか」ということを伺いました!!。

また、施設との付き合い方で一つアドバイスをいただきました。それは、私が、「面会は10分だけだし、あまり行く気になれない」と言うと、「受け入れ施設のほうは、家族が入所者(母)に対してどのような態度かを見てますよ。それによって母への対応が違ってきます。足繁く行くことですね」ということでした。いつもこのNさんは、ずばりと言ってくれます。

☆2023年4月22日(土)面会に行くと母は?

2023年4月22日(土)の14時に面会に行きました。今回は、大阪の家に行って、春夏用の服やその他で、母がほしいものを取り行くので、それを聞くためです。二階からヘルパーさんに手を引かれて連れられてきた母に、「誰かわかるか?」と言うと、流石にまだはっきりと「何言うてんの?」と言いましたので、私とわかり、ほっとしましたね。

表情は穏やかで、なぜかニコニコしています。また、付き添ってきた、ヘルパーさんに終始甘えているような感じなのです。ほしいものを聞いても、自分からあまり言わず、ヘルパーさんから「長袖のTシャツくらいですかね」という反応です。「養命酒はまだあるの?」「薬はちゃんと飲んでるんか?」「ビオフェルミンは?」と聞くと、「ビオフェルミンは持ってきてない。」というので、ヘルパーさんにも聞きましたが、わかりませんでした。どうも頓服で、母が必要だと言ったら飲ますようになっていたので、持参の薬手帳では、直近の処方箋にはなかったのかもしれません。後日確認です。今日は、「いつ帰るの?」とは聞かれませんでしたね。でも、どうなんでしょうね?これって認知症が進んだとも言えるのでしょうか?

また、カラオケについて聞くと、やっと状況がわかりました。ヘルパーさんが言うには、①2階と3階で1台しかなく、交互に使っていること、②そのマイクが昨日、修理が済んだとのことでした。マイクなら大阪の家にあるので、差し上げますよと言うと、そこまでは結構ですと言われました。

一通り聞くと、すでに15分を過ぎていて、ヘルパーさんから、「テーブルの上の面会記録を書いてくださいね。でも、15分にしてください。」と言われました。厳密に運営してるようです!。

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母の介護奮闘記-5

目次:グループホーム編・・・・母の介護奮闘記-5

☆2023年4月5日 グループホームC八木に面会に行くと・・母が「いつ帰るの?」

☆2023年4月6日 叔母からの電話・・母に「ボディスーツ送るから」って?

(振り返ってみると)

母を明石に連れてきて、これから暫く?は、大阪まで車で行く必要がなくなりました。私が介護のことがあり、2018年から、一体どれくらい往復したのか?また、多くなったのはなぜなのかが気になり、手帳を引っ張りだしてきました。結果は、178回で、多くなった原因は、やはり転倒による通院とコロナワクチン等がきっかけのようでした。ちなみに、Ⅰ往復160キロですので、28,480キロ、ガソリン代は約31万円也(@110円/Lとして)でした。これに高速代(往復3700円)が本来がかかるのですが、高速を使ったのは、年に2~3回程度でしたね。

2018年・・・12回(私が常勤をやめた2016年4月以降は、月1回程度)

2019年・・・25回(2019年3月27日に、母は転倒右手脱臼で通院)

2020年・・・21回(2020年11月2日に、母は転倒で顎骨折で通院)

2021年・・・28回(6月コロナ1回目コロナワクチン接種)

2022年・・・25回(デイサービス、訪問看護、ヘルパーで週7日開始。11月20日に5回目コロナワクチン接種)

2023年・・・9回(4月3日の入所まで) 

計  ・・・178回

☆2023年4月5日 グループホームC八木に面会に行くと・・母が「いつ帰るの?」

2023年4月5日に、母を連れてくる4月2日に実家にあって洗濯をしていない普段着があったので、それを私の家で洗って持っていく必要がありました。予め電話でケアマネのHさんに、「いつがいいですかね」と聞くと、15時過ぎとのことでした。その時間に行くと、今、会う方がいいのか、会わない方がいいのかも含めてHさんに任せると、「会っていただいてもいいですよ」との返事でしたので、母を1階の入口近くの3脚ほど椅子のある場所に連れてきてくれました。10分とのことだったので、検温の上、母と会い、話をしましたが、ケアマネさんが立ち会いですので、母の口が堅いのかあまり喋らず、私に「いつ帰るの?」と聞くのです。そこでHさんは、「息子さんも忙しいのでね」と言い、私はと言えば、言葉が見つからず困り果て、「夜は持ってきた電機毛布を使っているんか?」「電気ザブトンは?」と聞くと、Hさんが「暖かいので使っていませんね」とのことでした。私が「何かいるものはないか?」と聞いても、母からは「ない」と言うだけでした。母から「いつ帰るの?」ということをこの場で聞くのは、私の側からは、寂しいというか、何ともいえない複雑な気持ちになりますね。介護をしている人はみんな経験するのでしょうが・・・・。

☆2023年4月6日 叔母からの電話・・母に「ボディスーツ送るから」って?

母には10才以上離れた弟(叔父)と妹(叔母)がいます。叔母の方は関東に住んでおり、コロナ以降は来ることもなく、もう3年以上会っていないのですが、母によく電話はするのです。今回のことも、私は入所翌日の4月4日に電話で伝えたのですが、どうも入所に対して疑問(まだ在宅でいける)のような言い方でした。母との電話の会話では母が普通のように聞こえるのでしょうね。もうほとんど家の中しか歩けないことや、トイレを汚して自分ではわからず掃除が大変なことがあること、家の風呂にはここ1年近く入れないこと、給湯器と風呂の元栓の3つのスイッチがわからずに皿を洗うお湯を出すのに、風呂の「自動ボタン」を押したり、ガスファンヒーターの前に大量の洗濯物を置いて乾かし、何度言っても聞かず、いつ火事になるかわからないとか・・・電話で話をするのと介護の現場は全く異なる!のです。

その叔母が私に4月6日の20時頃に電話をかけてきて、「さっき、ねえちゃんに電話したら、明るかったで!」ということで少しびっくりしたことと、母との話で「ボディスーツの新しいのを、あんたの家に送るから今度、持って行ってあげて」とのことでした。ボディスーツに関しては、私は男なのでわかりませんが、いつも内科の通院の時に、60代の女医にびっくりされたり、レントゲンやMRI、胸の聴診器の時に股間のホックを外したりと、「これってどうなの」と思っていたのです。大阪で担当のケアマネに相談すると、「パッドのついた下着を買ってあげてくださいね」と言うので、女房に買ってもらって持っていたのですが、母は「胸のパッドをはずす(糸をとる)」と言って、それもせず結局1枚も使わない状態でした。叔母にそのことを言っても、「人それぞれ」で聞く耳を持たずでした。グループホームに限らず、特養や老健がどんな場所か想像ができないのでしょうね。叔母は、母と同じで今まで一度も介護の経験がありません。体重36キロの母に、あんなきっちりした「矯正下着」がいるのですかね。グループホームにいる人は、パジャマか、動きやすいスポーツウエアみたいなものがほとんどですよね。どうもこの叔母と話していると温度差がありすぎて「いらっ!」としますね。

この叔母も母もそうですが、二人とも、たまたま同居の父母もおらず、昔でいう跡取りの嫁でもなかったので、認知症の親の直接の世話(しもの世話等を含め)をしたり、介護施設を自分の足で探したり、お金のことを考えたりしたことがないのです。私も記憶にありますが、30年近く前に、特養(当時は老人ホーム?)にいた祖母をガラス越しで会いに行く程度だったんですね。その点、もう亡くなった兄みたいなTさんと奥様(前述)、叔父(母の弟)の奥様は、よく経験されていて話がスムースなのです。

私がそうですが、介護経験のない親を持つ子供は、介護で苦労するのかも知れませんね。介護経験があれば、認知症の対応や、介護施設のことを含め、その大変さはわかりますよね。私は自分自身のことを考えると、母のことが一段落したら、娘に「自分の今後の介護のことを書いたもの」を渡そうと思っています。

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母の介護奮闘記-4

目次:80キロ離れたひとり暮らしの母の介護奮闘記-4

☆2023年3月23日 介護でお世話になった兄のようなTさんの死

☆2023年3月27日 グループホームC八木の契約日・・山のような書類!

☆2023年4月2日 グループホームC八木への入所前日・・母に通告!すると?

☆2023年4月3日 グループホームC八木への入所当日・・車に乗ってくれるのか?

☆2023年4月4日 市役所支所で転入届の手続き・・91才でも来てくれという?

☆2023年3月23日 介護でお世話になった兄のようなTさんの死

2023年3月23日の昼に電話があり、母の介護で、母が転倒して病院に緊急で行った時にたまたま来ていた息子さんと駆けつけてきてくれたり、翌日に母のベッドを一緒になって2階から1階に降ろしてくれたり、前述の停電事件では深夜23時に駆けつけてくれたり、しょっちゅう様子見に来てくれたりと何かとお世話になり、また、母の今後のことや介護施設のことで経験や知見のあるTさんが、ここ1年ほど前から胃がんで闘病されていましたが、深夜0時30分に亡くなったとの電話が奥様からきました。私は、小さい頃からもう60年近い付き合いで、まるで兄のように慕い、文字通り今まで「兄ちゃん」と呼んでいたTさんでした。昨年秋には、抗がん剤「オプチーボ」が効き、ゴルフ(18ホールを回れて喜んでいたのに・・)の復帰まで果たしたものの、今年の初めからこれが効かず、この3月になってからは苦しい在宅での闘病生活でした。私は母の介護で帰省の折には、必ずTさんの顔を見に行っていました。もう、母のことで、車ですぐに駆けつけてくれる人はいなくなりました。介護のことで何でも話しができるのは、奥様ひとりになりました。困った。逆に言えば、母を明石に連れていく以外に方法は残されていないのですね。なお、Tさんはがんと闘いながら、亡くなる直前まで、自分自身の告別式の手配までしていたとあとで聞かされました。このTさんの通夜と告別式のために、私は今月4回目の帰省をしましたが、Tさんのことは、もちろん母もよく知っていますので、亡くなったことを言うべきかどうか悩みました。今の母の状況を考えるとどうしても、言えません。その後に奥様とも相談したのですが、暫くはこのままで行こうかと考えています。

☆2023年3月27日 グループホームC八木との契約・・山のような書類!

2023年3月27日10時に私ひとりでC八木に行き、まるで保険のような「重要事項説明書」の説明を順次聞き、10種類近い書類に記名押印をしました。もちろん母はいないので、私が母の名前を書くことになります。費用の自動引き落としの書類もです。多分、正式には「後見人制度」になるのでしょうが、認知症の場合は、仕方がないですよね。銀行側は、銀行届出印だけのチェックなのでしょう。また、すべての書類の住所を大阪か明石のどちらにするかという話になり、転出日が4月2日で、契約日の3月27日はまだ大阪ですが、契約書はすべて明石の私の住所にするとのことでした。その後、C八木と提携している近くのクリニックに行き、準備した「診療情報提供書」を渡すと、C八木と同様、クリニックからの4種類の契約書類等に記名押印をしました。またこの折にこのクリニックの担当の看護師さんに、C八木の評判等を聞きましたが、提携なのでこれは口が堅いでしたね。これらと併せて、最後に提携の薬局との契約書を渡され、自動引き落としの契約書含め5種類の契約書等に記名押印をし、これは郵送となりました。2時間ほどでやっと契約が終わりました。ここで、びっくりしたのですが、大阪の眼科の「診療情報提供書」がここでは渡さず残っていたので、聞くと、「それは、ご自身で眼科に出してください」と言うのです??。契約書もそうですが、すべて「一括」でできないのでしょうかね。さあ、あと残された難題は、いかにして母をここに連れてくるかですね。これも、今日会ったC八木と病院の人すべてに聞きましたが、妙案はなかったです。

☆2023年4月2日 グループホームC八木への入所前日・・母に通告!すると?

2023年4月2日(日)の午後に車を運転して大阪の実家に向かいました。この日は2号線、43号線とも比較的すいていて、約3時間で着きました。着いてから一休みして、母に「大事な話があるねん」と言って、「明石で10軒ほど施設を見学して、普通はめったに空けへんけど、やっと一つ空いてん。明日の朝9時に出発するから、準備して」と言いました。実はこの日までに、何度か「明石で良い施設を探している」という話はしていたのですが、いつも「そんなんいらん。ここで暮らす。」の一点張りで、押し問答の末、一度ですが、怒りながら「もうーーまかす」と言ったこともあるのです。でももう忘れてしまっています。また、いちからの話になります。この日は17時頃から30分ほど話をしましたが、「ここで最後まで暮らす。もうほおっておいてくれたらええんや。勝手に死んでるから」と言い、「そんなわけにいかんやろ。俺を犯罪者にするつもりか?」というと、「そんなん、私死んでるから知らん」というような押し問答です。かつて、初めてデイサービスに行く時も、「そんなところ行けへん。市のカラオケ(サークル)に行く(そんな距離は歩けないのに)」と言い、ヘルパーさんに来てもらう時も、「ヘルパーを家に入れてお金をとられたて聞いたからいや」でした。すべては「NO」から始まるのです。この日は、さすがにもう話すのをやめ、私としては、明日の朝にパジャマのままでも、強引に車に乗せて行こうと考えました。それと、その日にしなければならない仕事がたくさんありました。2階の少し小さいテレビを梱包して車に積まなくてはなりませんし、明石で準備できなかった普段着や下着をまとめて全部に名前を書かなければなりません。また、今着ている洗濯ものは、明石に持ち帰って洗濯した上で後日持って行くことも必要です。おまけに今後はこの家も空き家になるので、生ごみも持ち帰って処分しなければなりません。電気は冷蔵庫以外はすべてコンセントを抜く必要がありますし。その日は、おいしい肉でも買ってきて食べようかと考えていたのですが、結局、スーパーに行く時間もなく、冷凍庫にあったハンバーグを無言で二人で食べましたね。

☆2023年4月3日 グループホームC八木への入所当日・・車に乗ってくれるのか?

2023年4月3日(月)朝7時15分に起きて、私が無言で朝食の準備をしながら母の様子をみていると、少し諦めたかのような感じがしてきました。「準備しいや」というと、相変わらず「行けへん」とはいうものの少し軟化してきたようです。私が「行ってみて、いややったらまた帰ってきたらええねん」と言い、私が準備し始めると、デイサービスに行く服を着てくれたので、見ないフリをして私は荷物を車に積み込んだりして忙しくしていました。「さあ行くで」と言うと流石に諦めたのか、何と!素直に車に乗ってくれました。良かった。ほっと一息です。この日の移動は、めったに使わない阪神高速神戸線でしたが、芦屋で事故渋滞に会い、結局2時間近くかかってしまいました。母はおとなしく外の満開の桜を眺めていましたね。

11時過ぎにグループホームC八木に着くと、どうなっているのかと心配していた由でケアマネのHさんが迎えてくれました。早速、Hさんが母を迎えてくれ、任せてくれという合図のようなしぐさだったので、母は任せ、私は車から荷物を部屋に運び込みました。部屋でテレビをセットしていると壁からつなぐ同軸ケーブルを忘れたことがわかりました。また新しいのをそろえて再度来ることになり、母の様子を見ていると、他の入所者の真ん中で、「借りてきた猫」状態でちょこんと座っていましたね。他人の前では恰好を気にする性格なので、気が張っているのでしょう。

その日は、16時頃に女房と一緒に、テレビの同軸ケーブルと、一人用のドリップコーヒー(もともと母は毎朝ひとりでもコーヒーをドリップして飲んでいましたので聞いてみると、一人用ならサーブしてくれる由でした)、ティッシュペーパー(施設で買ってくれるらしいのですが)等を持って行きました。また、テレビは大阪から兵庫県へのチューニングが必要でしたので、部屋に入って調整している時に、横にいる女房を指して母に「これ誰?」というと誰か判らず、女房が「E子とN子の母やで」と言っても判らず、別の親戚の「Tちゃんか?」「Sちゃんか?」という始末です。まあ、ともあれ無事に入所が終わり、ほっとしましたね。

入所しました!

☆2023年4月4日 市役所支所で転入届の手続き・・91才でも来てくれという?

2023年4月4日に市役所支所に行き、転入届の手続きに行きました。予めネットで調べていて本人の委任状がいると書いてあったので、実はプリントアウトして用意して大阪の実家に持って行っていたのですが、一昨日や昨日の状況で母に書いてもらうわけにもいかずでしたが、そこは何とか!?しましたね。住民票の係に行き、これを出すと、すんなりまた別の書類に記入し完了したのですが、マイナンバーカードに運転免許証のような住所変更の記載が必要らしくて、40分程度時間がかかることと、本人出頭が必要?と言い出すのでした。「母はここまで歩けない」というと困った顔をしていましたね。その後にその人は「調べます」と言い、その場は終わり、次に健康保険の窓口に行くと、介護等級認定書がいるとのことで、昼前でもあり、マイナンバーの時間待ちもあり、一旦家に帰ることになりました。午後になり、大阪でもらった介護等級認定書を持って、再度健康保険の窓口に行きましたが、その時、窓口の方が「健康保険にマイナンバーを記載されますか?」と言うので、「今、マイナンバーはここで預けたままです」と言うと、また「記載されますか?」と聞くのです。そこで「記載したらどうなるのですか?」と聞くと、「病院でマイナンバーが使えるところで使えますが、まだまだ使えない病院が多いですから、どうしますか?」言うのです。私は、「大阪の病院ではマイナンバーのリーダーがあったので申し込みます」と言うと、この担当者は、ここで私がマイナンバーカードができてくるまでの時間を待つのががいやそうでしたね。その後、暫くまた待っているとマンナンバーカードができてきた(新住所記載の)ので、私がマイナンバーカード記載の番号を高齢者保険(か介護保険?)の用紙に記載しました。

一方、91才でも来てくれというマイナンバーカードの担当者は、私にカードを渡しながら、「今度の2026年の更新の時に、代理で発行できる案内が書いてあるので、それを見てやってください」と言いました。この人達は、マイナンバーカードを普及させたくないようですね??。

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